暗黒メンヘラ時代を乗り越えて改めて想うこと ~メンヘラ形成~

最終更新: 5月23日



幼少期の人格形成時の家庭環境にかなり問題があった私の話をします。


細かく書くと(細かく書かなくても)長くなるので、かなーり割愛しますが、私は母方の実家で生まれました。


祖父と父はマスオさん。


要は苗字は夫側だけど、住んでいる土地は妻側という状態。


1歳上の兄がいて、親戚に囲まれた土地で体裁を気にするザ・女系家族に生を受けたのですが、私は望まれない子供でした。


なぜなら、兄が長男として生まれているので家系存続の目的は果たされていたし、年子は貞操観念が低い(要はヤってばっかり)と周りに思われるから。


堕ろしてしまえと母は祖父母に言われたそうです。


しかしそれに反発して母が生んだ私は、皮肉にも母の望み通りの女の子だったので『望(のぞみ)』と名付けられました。


生まれて数年経つと、そんな母からも『お前はうちの子じゃない』と言われるようになるんですけどね。



私は小さい頃からこの母方の祖母の目の敵でして、祖母が私の発言に対して笑ったのを初めて見て衝撃を受けたのは、小学5~6年生の頃だったと記憶しています。


それまで私は祖母に笑顔を向けられたことがなく、まるで昼メロ(昭和ネタ失礼)よろしく、私には真顔、横の兄と話すときは満面の笑みという対応を繰り返されます。


そんな大正生まれの祖母は、1日の起きている時間の殆どを祖父を罵倒することに費やしていました。


一般家庭では有り得ない話なのですが、放送禁止用語が祖母から祖父に姿が見えるたびに浴びせられるのです。


簡単に言っちゃうとモラハラ、というか精神的DV。


そんな祖父は『聞か猿(難聴)スキル』を身に着け、祖母の話をほぼ聞き取れなくしてやり過ごすうという、仙人のような人でした。


家族の中で多分、祖父が唯一フラットに人に接することのできる存在だったと思います。


だって私が幼少期に子守唄を歌ってもらったのは、母ではなく祖父。


絵本を読んでくれたのは、我が実家から数メートル先に住む祖母の妹だったから。



そもそもモラハラ・精神的DV全開の祖母は、母や伯母に対してプライバシーの侵害を繰り返し(伯母談)、『田舎の長女の呪い』をかけられた母は箱入り娘で不可思議な価値観の下で成長し、それが成熟しないまま、これまたいつまでも男として、人として成熟しなかった父と結婚します。


問題あるもの同士の結婚。


母は父に、父は母に不満を持ち、お互いのエゴを主張して相手を尊重しない結婚生活。


父は母が身籠っている時から再三不倫を繰り返し、水商売のお姉さま方に貢ぎ過ぎて作った借金を母が肩代わりし、その母のストレスは子供、特に私にぶつけられました。


なぜって、性格的に私が兄より自己主張が強かったから。


そんな我が家は見事なまでの『メンヘラ製造機』だった訳です。



私は幼少期から、やりたい事はやらせてもらえないけれど、やりたくない事だけは母親からかなり押し付けられていました。


それは多分、私たちの年代の親あるあるの『親の学歴コンプレックスを子供に押し付けスキル』です。


私と同年代に受験を苦にして自殺していた人が多いと記憶にあるのですが、こういった親のコンプレックスを押し付けられた世代だからそこでしょう。


さらに、父への当てつけにしょっ中海外旅行をする母。


特に行きたくもないのに連れていかれる私と兄。


家族旅行なのに父はいつも不在だし、発展途上国で自分より小さな子供が物乞いしている姿を見てショックを受ける私。


ツアーガイドのタイ人男性に自分たちの使い古したビーチサンダルを『お礼に』と満面の笑みで渡す母を見て、小4ながらに何て人を軽蔑しているだろうと思ったものです。



そんな母は、私の小学校最後の運動会に来ませんでした。


よりによって私の人生最後の親と一緒に過ごす小学校行事の際に、一人優雅に海外旅行をしていました。


母の妹である伯母が作ってくれたお弁当を食べながら、やはり自分は母にとって要らない存在なのだと噛み締めたものです。


私がどんなにいい成績をとっても、児童会長になろうとも、母は私を褒めてはくれませんでした。


しかしたまにテストの点数が低かったりする場合のみ、この世の終わりのような深刻な状態になり、しかも私より成績の悪かった兄となぜか比較されました。


『お兄ちゃんはあんたより点数取っている』と。


理不尽の嵐です。



これは私の育った家庭環境で私が家族から受けた経験の、ほんのほんの些細な一部の話でしかありません。


父についても色々ありますし、兄との関係も関わっています。


私は過度な暴力や育児放棄は受けていませんでした。


幼少期は胸を触ってくる父が嫌いで、触られるのが嫌で名前を呼び捨てで呼んで反抗してはよく頭を殴られていましたが、流血したり打撲痕が残るほどの暴力は受けていませんでした。



でも、私の精神が捻じ曲がるには十分だったと思います。


その後の思春期より、私は共感能力が著しく低く、人に頼れず、異性に認められることに執着していきます。


恋愛依存症者の爆誕です。


思春期を過ぎた頃にはその精神はより歪んだ形で固結され、軌道修正がかなり難しい状況になっていきます。


しかし、その中で少しずつ、確実に私を救ってくれた人たちのおかげで、私はつい最近、自分でメンヘラから抜け出したという自覚が持てるようになりました。


小さなきっかけは沢山ありますが、大きなきっかけは『出産』、『娘のための再上京での生活』、『母の自殺』、『娘の反抗期』の4つにあると思っています。


特に母の自殺と娘の反抗期がほぼ被りの時期は最凶でした。



よく生きて来られたと思うのですが、人生で何度も自殺を考えても留まったのは、やはり母の教育のたまものです。


自殺をしたら、残された人間が(あらゆる意味で)大変だという事実だけは、どんなに精神を病んでいても理解していました。


母の亡き後に兄と話して一致する答え、それは『やはり子供を一番に想っていたのは母である』ということ。


残念ながら本質的にそれを理解しかけたのが母の自殺直前、理解したのは母の自殺後です。


リアリストの私ですが、母の自殺は、私が一人で生きていける人格形成ラインまで母が命を賭して引っ張り上げてくれたのだと思うようにしています。


そしてアラフォーでそれなりの精神状態になることができた今、かなり大変ではあるけれど、きっかけさえあれば変わることに年齢は関係ないのだと強く言えます。



あなたがもし、家庭環境で苦しんだ末の現状が嫌なら、まずは自分の状況がなぜこうなったのか、私のように文章で書き出してみるのは自己分析にとてもいいと思います。


客観視できないなら、始めのうちは気持ちだけを書きなぐって自分の気持ちを確認するのもいいでしょう。


書くのが難しいのであれば、話すのでもいいです。


私のお客様方は本当に沢山の話を私にしてくださいます。


そうやって現状に至るまでの経過を自分で確認するのです。



私は自分の経験を活かして現在お客様に還元できるこの状況が、苦しんで損はなかった、むしろ苦しんだからこその結果だなと自負しています。


あなたもメンヘラ形成されてしまったことをただ悲観するだけではなく、抜け出すきっかけを作ってみてください。


自分を救えるのは自分だけです。


ほんの少しだけでも、その変化は大きく変化する未来へ続いています。


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